分子内分泌学への誘い:一般の方々のために

私たちの一生をコントロールしているメカニズムを知る

 私たちヒトの体は、約200種類の異なる機能をもった細胞が60-100兆個集まってできていますが、これは、たった一個の受精卵が、増殖(細胞数が増えること)や分化(それぞれの細胞が特別な機能を発揮するようになること)、細胞死(管理・調節された細胞の自殺)などを繰り返してできあがったものです。この過程は、発生、発達、成長、成熟などと呼ばれています。

 受精卵は、幹細胞あるいは前駆細胞とよばれるいろいろな細胞あるいは特定の細胞に分化する能力を持っている細胞へと分化し、これら幹細胞・前駆細胞は、適当な生体内の場所、タイミング、刺激で増殖を繰り返し、そしていろいろな刺激に応答して決まった細胞に最終分化(運命づけられた細胞に分化すること)していきます。また最終分化した細胞の中にも、その機能を維持しながら生体の中で増殖している細胞もあります。一方、成長後も、一部の細胞を除いて細胞増殖や分化、細胞死は続き、細胞は頻繁に入れ替わっています。これは細胞の新陳代謝などとも呼ばれていますが、その活性は徐々に低下し、老化が進行することになります。

 それぞれの細胞が運命づけられた特別な機能を発揮するというのは、分子的には、「その細胞に特有な遺伝子(DNA)が転写されてmRNAができ、これがタンパク質に翻訳されて、このタンパク質がその細胞にしか発揮できない特別な活性を発現する」ことと言い換えることができます。そして、この転写、翻訳、機能分子の活性化は、体の発生・発達・成長・成熟・老化のプログラムによって、また、外界の環境や体内の状態に応答して緻密に調節されてはじめて、私たちの生命が維持されています。

 特に、私たちは、常に生体内外の変化に順応して生きていかなくてはならないので、様々な細胞、そして様々な細胞の集合体である臓器・器官は、生体内外の変化に応答して軌を一にしてその機能を調節する必要があります。そのため、体内外の変化を感じた生体は、神経系・内分泌系・免疫系などを用いてその情報をそれぞれの細胞に伝え、これに応じて細胞内では適切な遺伝子発現やタンパク質合成が起こり、変化に適応しています。このように、生体内外の変化に応じて巨大な細胞社会を動かすために、生体は、数え切れないほどの情報伝達機構を備えています。

 一体、動物の発生、発達、成長、成熟、老化、そしてそのときの代謝は、生体内外の変化に応答して、どういうメカニズムで調節されているのでしょうか?それに異常が起こったときに何が起こるのでしょうか?そして、これを正常に維持するためには、どうしたらよいのでしょうか?

 私たちの研究グループでは、これらのテーマに分子レベルでの内分泌制御の観点から取り組んでいます。

細胞と個体を使った研究はなぜ必要か

 細胞を個々ばらばらにして、適当な培地の入った培養器内で生育させる技術を「細胞培養法」と呼んでいます。この手法の普及により、近年急速に、生体内で複雑に制御されている細胞の生育・機能発現を、単純な系を用いていろいろな条件下で解析できるようになりました。

 現在では、培養技術の進歩により、いろいろな組織・細胞の培養が可能となってきていますが、未だに培養に成功していない細胞もあります。一般に組織から取り出して培養した細胞は、組織の性質をそのまま保持しており、「初代培養細胞」と呼ばれています。生体から取り出して植え継いでいける細胞を「継代培養細胞」と言いますが、細胞系として樹立された細胞は、ほとんどの場合、染色体(遺伝子)に異常が起こっており、特殊な機能の一部を失っている場合が多いのが現実です。

 このような培養細胞を用いて、細胞の増殖のしくみ、細胞の分化のしくみ、細胞死のしくみ、細胞の機能発現のしくみを調べるなど、いろいろな生命現象のメカニズムを解明する研究が懸命に進められています。一方、培養した細胞を用いた毒性試験や新しい薬剤の開発、疾病の原因の究明など、応用研究・臨床研究が進み、動物実験の代替え実験法としても広く用いられています。更に、細胞の遺伝子を人為的に組換える、いわゆる「遺伝子工学」が発展し、新しい機能を有する細胞を作り出したり、その機能を調節したりすることも可能になっています。

 しかし、生体の一部を生体外で実験するという方法は、細胞自身の機能を調べるのには優れていますが、生体の全体的な機能・反応の研究の一部は実施が不可能なことは容易に想像がつかれることと思います。培養細胞を使った明らかになったいろいろな生命現象は、動物個体を使って更に発展させる必要があるわけです。

我々の一生には常に適当なインスリン様活性が必須である

 そこで、私たちは、動物の発生、発達、成長、成熟、老化、そしてそのときの代謝の制御機構、すなわち「動物の一生の制御メカニズム」を、インスリン様成長因子(IGF:インスリンに類似したホルモン)やインスリンという同化ホルモンを使って、分子内分泌学的に明らかにする研究をしています。そのために、神経細胞、内分泌細胞、脂肪細胞、筋肉細胞、肝臓細胞などの多くの培養細胞を用いてこれらのホルモンの活性の調節機構を分子レベルで調べ、得られた結果をもとに、動物個体を用いてそれぞれの臓器の個々の役割と連携の仕組みを調べています。その結果、これらのホルモンの活性が、動物の発生、発達、成長、成熟、老化の過程で異なる機構で緻密に制御され、同時に生体内外の変化に応じて修飾されている、そして、これに異常を生じると成長の遅滞や老化の促進、代謝異常による疾病の発症が起こることがわかってきました。そこで、多くのホルモンの中から「同化ホルモン」と考えられているIGF、インスリンなどに注目して、生体の置かれた状況が、これらのホルモンの産生・分泌や血中動態、情報伝達をどのように変化させ、その結果、動物の発生、発達、成長、成熟、老化、それぞれの時期における代謝がコントロールされているかというメカニズムを明らかにすることが、私たちの研究の目標です。